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Vol.10 - 2
2003/02/17発行

照屋勝治  HIVそして低体温 
 
     エイズ治療・研究開発センター  照屋 勝治(6期生)                  
1998年10月から東京新宿の国立国際医療センター内にある、エイズ治療・研究開発センターで臨床医として勤務しています。ご存じかもしれませんが、当センターはHIV訴訟の和解後、薬害エイズ被害者救済の一環として1997年4月にオープンしたものです。もちろん薬害エイズの患者さんだけでなくすべてのHIV患者を対象としているわけですが、ここのところ通院患者は年間100人ずつの速度で増加中で、外来も最近はかなり忙しくなり、「HIV爆発」を身をもって感じています。
 HIVの領域は他のどの分野にもないスピードで進歩を遂げてきたといえます。HIV関連の治療ガイドラインはほぼ毎年更新されていますし、治療の原則ですらかつては「なるべく早く治療したほうがいい」のが通説だったのに、最近は「いつまで治療開始を遅らせたほうがいいのか?」に変わってきました。一時は期待された抗HIV薬による治癒が絶望的になり、患者は薬剤を長期間にわたって飲み続けなければならないことが明らかになったことと、HIV治療に関するいくつかの重大な副作用が明らかになってきたことによるものです。外来でみる患者さんの雰囲気もこの数年でがらりと変わってきた印象があります。私が勤務し始めたころの患者さんは死の恐怖におののいているという雰囲気があり、「HIVはもう治療が可能になったんだよ」と説得し安心させようと心を砕いたものですが、このごろは初診の患者さんですらあまり悲壮感が見られなくなったような気がします。治療が可能になったことが良く知られるようになったこともあるのでしょうが、HIVが爆発的に増え始めているのと平行して人々がHIVに対して楽観的になり、マスコミも興味をなくしたのか全くHIVを取り上げようとしなくなっていることに不安を感じているこのごろです。私がここに来てからの数年間でもHIV診療は大きく変わりました。今激動の中にいるのだと感じることがあります。そして来るべきもう一つのブレイクスルー。HIVの治癒。これを目の前で見てみたいと切に願いながら診療を行っています。
 こちらに来てから期せずして国際協力も手がけるようになりました。活動というほどのものでもありませんが、2002年3月にはパプアニューギニアと東ティモールに医療状況の視察に行き、9月と12月は中国の雲南省、浙江省へHIVと結核に関する視察に出掛けました。これから3年間にわたってこれら発展途上地域のHIVと結核に関する現状調査と医療協力をしていく予定です。これからタイやベトナムに行くこともほぼ確実みたいなので腹をくくらねばなりません。これくらいならいいのですが、2000年にウガンダでエボラ出血熱が発生したときには医師団としてもう少しで派遣されそうになり、いよいよのところで流行が集結に向かったため中止となったのですが、かなり肝を冷やしました。HIVを診ている人間が情けない限りですがエボラは怖いですね。というわけで(?!)、世界の人々の健康と平和を心より祈っているのです。
 東京は自然がないと思われがちですが、結構木は植えられているし、くつろげる公園もあるんですよね。春には私のアパートの前や病院の敷地内は桜が満開になってすごくきれいです。夏が近づくと枯れ木だった木がみるみる緑色に変わり、勢いよくなってきます。秋になると紅葉になり、木枯らしで落ち葉が舞ってこれまた風情がある。冬の枯れ木もいいもんです。ただ沖縄に30年住み続けてきた私が未だに慣れないのが寒さ。この間も体調が悪いなと思って体温を測ってみたら、平熱がいつもは36.9度はあるのに、36.0度に下がっていました。低体温です。股引はいて、ホッカイロと希望をポケットにつっこんで頑張りたいと思います。

 新米開業医の呟き 

け い わ ク リ ニ ッ ク  豊田 和正(5期生)
 
 那覇市牧志のダイエー前のいとみね会館1Fに、昨年11月「けいわ(慧和)クリニック」を開業しました。5Fには心療内科・精神科の「かいメンタルクリニック」があり、診診連携では日頃お世話になっております。
 私は埼玉県の出身ですが、沖縄に住みはじめて今年で18年目を迎えます。高校卒業後は上智大学を経て,東京の外資系の会社で4年間余りサラリーマンをしていました。約19年前に沖縄の家内の父親が長いこと病床に臥しており、医師という患者を助ける仕事に挑戦してみようと思い立ったことが医師を目指すきっかけでした。いつかは患者と気軽に接することができ、マイペースで仕事のできる開業医を目指したいと思っていました。運良く一昨年末に立地のいいこの場所があいたことと、こんな気持ちが交錯して、悩んだあげく、思いきって開業に踏み切りました.
 開業してまだ2ヶ月ちょっとしか経過していないので何が起こるかわからない毎日の連続です。医療の理想と現実の食い違いはこうも大きいと改めて実感しています。まず、患者は予測したほど来院されません。いくら宣伝しても患者にも好みというものがあり、こればかりはすぐには解決できない大問題です。先月は昼休みの食事中に「先生、急患です!」と呼ばれたので、「せっかくの昼休みだけど患者様だ」と駆けつけたら、火傷の31歳の女性患者。疼痛をひどく訴えるのでベッドに寝かせて、鎮痛薬、点滴まで処置したら最後の会計窓口で「保険証、後でいいですか?小銭もあまりないものですから」。翌日一度は包帯交換に姿を現したものの、その後「行方不明」。7000円余りが未収金発生となりました。さらに労務管理が難題です。人材を育て上げるのがこれほど大変なものだとは初めて知りました。
 標榜科目は内科・呼吸器科・小児科・皮膚科で、気管支喘息をはじめとした気道アトピーやアレルギー性疾患から生活習慣病の高血圧や糖尿病など幅広く診療しています。最初の頃は患者もポツリポツリであったものの、最近はインフルエンザの流行と相まって診療業務もやや忙しくなってきています。この4月のサラリーマンの自己負担3割導入や夏場に向けてやや心配な面もありますが、職員一丸となり追々頑張ってゆきたいと思います。外で友人に会うと必ずいわれます、「体に気をつけて」と。ちなみに平成15年は年男であります。全く人生到る処青山ありとはこういうことだとつくづく感じております。

 開業ホヤホヤ! 

お ぎ ど う 眼 科 荻堂 哲司(5期生)
 
 この原稿の以来を受けたのが開業後まだ2週間程しか経っていない時期で、なかなかおもしろいネタもありませんが、とりあえず当院について簡単にご紹介させて頂きます。
 今回、多くの方々のご支援を頂き、平成14年12月に那覇市上間に眼科の診療所を開設することができました。開院に至る約2年間はつらい事ばかりでしたが、どうにか無事スタートできホッとしています。当院の住所は那覇市ですが南風原町との境に位置しており、どちらかと言うと南風原の文化圏に属している感じです。病院近郊は商業地として栄えており、近くにはミスタードーナツやメイクマンなどがあり大変便利です。場所はメガネ一番の2階で床面積は約110坪と比較的ゆったりとした空間を確保することができました。診療は一般外来を中心に、糖尿病網膜症や緑内障のレーザー治療、そして白内障や翼状片などの日帰り手術を行っていく予定です。スタッフは看護師2名、医療事務3名ですが、全員眼科や医療事務の経験がなく、開院当初は患者さんの数が少ないのにもかかわらず、患者を間違えたり薬の入力をミスしたりと大変でした。現在、開業して1ヶ月が経ちましたが、やっとペースがつかめて一息ついています。とにもかくにも明るくて、元気いっぱいのスタッフとともに前進あるのみです。
 申し送れましたが私は、平成3年に琉大を卒業後(5期生)、同眼科医局に入局し、眼科医としてのスタートをきりました。大学勤務時代は白内障手術、角膜移植、羊膜移植など高度医療や先端医療に携わってきましたが、開業後はプライマリーケアが中心となるのでそのギャップに多少戸惑っています。また勤務医時代は純粋に医療のことだけに専念できましたが、開業すると自分自身の経営者としての勉強、スタッフの教育などを含め医療とは異なる分野の勉強が必要となり違った意味でやりがいがあります。そしていろいろな職種の人との交流もありこれからが楽しみです。
 今後の当医院の展望としましては、予約制を導入し患者さんの待ち時間を軽減し、さらに一人一人に質の高い医療を提供できるよう全力を尽くしたいと思います。
 まだスタートしたばかりですが、社会の荒波の中でもまれながら、一日も早く地域の人々から信頼される目医者になれるよう頑張りたいと思います。
 同窓会の皆様のご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。